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東京地方裁判所 昭和33年(行)127号 中間判決 1960年4月27日

原告 橋本兼太郎 外一名

被告 東京都知事

補助参加人 宗福寺

主文

本件訴は適法である。

二、理由

1、原告らは、本件訴につきいわゆる確認の利益を有せず、したがつて正当な当事者でないから、本件訴は不適法である。その理由は次のとおり。

(一) 原告らは、本訴確認の利益につき、旧曹洞派宗福寺の正統なる後身である宗教団体宗福寺に対し、その法地位を否定する新宗教法人宗福寺なるものが外形上存在して活動しているから、右宗教団体宗福寺の檀徒総代、少くともその檀徒たる原告らは、右地位に基き、右新宗教法人存立の基礎をなす被告の認証処分の無効確認を求める利益を有すると主張するのであるが、仮に本件において原告らが求めるとおりの判決が確定し、その結果右新宗教法人宗福寺の設立がその効力なきものとせられて同寺は法律上存在しないものと扱われることになつたとしても、右判決は、右新宗教法人設立以前に行われた上記規則の変更(旧宗福寺につき、これを、曹洞宗所属の寺院から独立の単立寺院とする規則の変更)の無効までを確定するものではないから、結局右判決の効果としては、新宗教法人の不存在化に伴いその直前に存在していたいわゆる旧単立宗福寺が宗教法人法の施行の際同法付則一七項によつて解散したということになつてその手続すなわち清算手続を執らねばならぬということになるだけである。したがつて、それは、右単立宗福寺のかつての存在までも否定して、旧曹洞派宗福寺の時代までかえらせるものではないから、原告らが主張する右旧曹洞派宗福寺の時代に戻ることによつて始めてその存在を云々する宗教団体宗福寺なるものの存在は、被告の認証処分の無効確認によつて得られる効果、すなわち新宗教法人の不存在化と旧単立宗福寺の解散化とは何等の関係がなく、したがつて原告らが仮に右宗教団体宗福寺なるものの檀徒またはその総代であるとしても、原告らは本件訴によつて何等の利益を得るものではないから、本訴の正当な当事者ではない。

(二) 仮に右の場合、本件判決によつて上記規則の変更までが無効とされ、その結果旧単立宗福寺も亦法律上存在しなかつたものと扱われることになるとしても、その場合には旧曹洞派宗福寺が前記付則一七項によつて解散したということになるところ、右付則一七項にいう「解散」とは、もとより法律用語たる同字句一般の用法に従い、当該法人が清算手続を経て法人格のみならずその有する社会的経済的実体をも消滅させることをいうのであつて、本件の場合もその例に洩れないものと解すべきであるから、右旧曹洞派宗福寺も右手続を執つて消滅することとなるのである。果して然らば、原告らが主張するところの宗教団体宗福寺なるものは、右とは無関係に、宗教法人法の施行の頃新たに発生した団体であると解すべきであるから、仮に原告らが同団体に如何なる地位を占めようとも、それと関係のないいわば他の寺院たる本件補助参加人宗福寺の存立等に関して本件のような確認を求める法律上の利益は何等これを有しないものというべきである。

(三) 更に、仮に以上が理由なく、旧曹洞派宗福寺の後身である宗教団体宗福寺なる寺院が現に有効に存在し、他方新宗教法人宗福寺はこれと利害相反する立場にあるとしても、原告らは、右宗教団体宗福寺の檀徒総代たる地位を有するものではない。すなわち、原告らがそのような主張をする根拠は、原告らが右宗教団体宗福寺の前身である旧曹洞派宗福寺の檀徒総代であつたからということに帰着するところ、原告らが一時右旧曹洞派宗福寺の檀徒総代であつたことは認めるが、その後昭和二五年七月四日適法に右総代たることを解任されているし、仮に然らずとするも、原告らは昭和二一年一〇月三〇日に総代に選任され、その任期は四年であるから、昭和二五年一〇月三〇日の経過とともにその総代たる地位を失つている。したがつて、同人らは、爾後同寺の檀徒総代ではないから、当然また右宗教団体の檀徒総代でもない。そうだとすると、原告らは右宗教団体との関係で法律上の利害関係を有しないものであるから、そのような者は、右宗教団体の法的地位の確保のため本件確認を求める利益を有しない。したがつて、本件訴は不適法である。

2、本件訴は、出訴期間不遵守の不適法な訴である。

本件訴は、その本質上いわゆる抗告訴訟だと解すべきである。原告らは、本件訴は無効確認訴訟だというが、そのいうところの無効原因なるものをみると、それは、被告の本件認証処分自体に存するかしというよりも、古く旧宗福寺の規則変更による単立寺院化の無効に端を発して右単立寺院たる宗福寺の代表者の新規則作成及びこれが認証申請の無効に及びその結果始めて被告の処分が違法であるというにすぎないから、仮に被告の処分に右のようなかしが存するとしても、それは、何等被告の処分にとつて重大且つ明白なかしとはいえず、単に右処分を取り消し得べきかしにすぎない。したがつて、本訴は、原告らの主張にかかわらず、その本質上被告の処分の取消を求める抗告訴訟である。しからば、本訴は、行政事件訴訟特例法五条の期間内に提起すべきであるにもかかわらず、本訴はその期間経過後に提起されているから、不適法な訴として却下を免れない。

(本案についての被告の答弁)

被告は、「原告らの請求を棄却する」との判決を求め、答弁として左のとおり述べた。

一、原告ら主張一の事実については、原告らがかつて旧曹洞派宗福寺の檀徒総代少くともその檀徒であつたことは認めるが、上述のように原告らはその後解任または任期満了によつて右檀徒総代たるの地位を失つている。その余の事実は否認する。

二、同二の事実は認める。

三、同三の事実については左記のとおりであつて、要するに被告の認証処分は適法有効である。

同1の(一)は認める。

同1の(二)については、戸沢徹の総代選任の日(同人は、原告らとともに昭和二一年一〇月三〇日に選任せられたのである)の点を除き、他は認める。

同1の(三)については、当時の住職北越顕高が昭和二五年七月頃病気のためその代務者がおかれていたこと(しかし、だからといつて、右北越の権限行使が全く停止されていた訳ではなく殊に総代の解任権は代務者にはなかつたから、右北越がこれを行使するのは違法である)を認めるの外はすべて争う。

同1の(四)については、右北越が昭和二六年三月五日住職を辞任し、その後任として横山顕宗が就任し、その旨の登記があることは認めるが、その余は争う。

同2は、被告が旧単立宗福寺の代表者たる右横山の申請に対してその規則の認証を与えた点を除き、すべて争う。

四、なお、仮に以上が理由なく、被告の処分が違法な処分であるとしても、その違法は上述したように右処分を無効ならしめる程のものではなく、これを取り消し得るにとどまるものであるところ、本件一切の事情を考慮するときは、現在に至つて右被告の処分を取り消すことは公共の福祉に適合しないものと認められるから、本件請求は、行政事件訴訟特例法一一条にのつとつて棄却さるべきである。

(証拠省略)

理由

本件訴が適法な訴であるか否かについて判断する。

第一、原告らの当事者適格について。

一、原告らが、かつて曹洞宗に属していた旧宗福寺の檀徒総代であつたこと(但し、その後その地位を失つたか否かを除く)、少くともその檀徒であつたこと並びに被告が昭和二九年三月二〇日上記旧単立宗福寺の代表者横山顕宗の作成申請した新宗教法人宗福寺に関する規則を認証する旨の処分をしたことは、当事者間に争がない。そこで先ず、原告らが果して被告の右処分の無効確認を求める法律上の利益を有するや否やを審究するに、右無効確認の判決のあることにより新宗教法人宗福寺成立の基礎となつた被告の認証処分の無効なることが確定する結果、右新宗教法人宗福寺の法律上の主体としての存立自体が否定せられ得るに至ることとなるから、原告らはこれによつて何等かの法律的利益を受けるもの、すなわち、原告ら自身または原告らが密接な法的利害関係を有する第三者が、右新宗教法人宗福寺の存立によつてその法的地位または権利を脅やかされていてこれを除去する必要ないし利益を有していることが要求せられる。ところで、原告らは、右の点に関し、現に前記旧曹洞派宗福寺の正統なる後身としてその法的地位を承継する宗教団体宗福寺という寺院が存在しているのに、これと対立して右旧曹洞派宗福寺の後身なりと称してそのように活動する宗教法人宗福寺なる寺院が現在しており、しかも原告らは右宗教団体宗福寺の檀徒総代(または檀徒)としてこれと密接な利害関係を有する地位にあるから原告らは上記利益を有すると主張するので、以上先ず右宗教団体宗福寺なる寺院が現存するか否かの点から検討を始める。

二、この点については、問題は微妙である。何故なら、ここにおいて行われるべきことは、単なる宗教団体宗福寺なるものの存否の検討ではなく、これと相対立するとせられる新宗教法人宗福寺は、それが旧曹洞派宗福寺の後身としてその法的地位を承継するということのゆえに右宗教団体宗福寺の地位を脅やかすことになるとせられるのであるからここにおいては旧曹洞派宗福寺の後身という意味での宗教団体宗福寺の存否を決せねばならないところ、上述当事者の各主張によつて明らかなように、右旧曹洞派宗福寺から宗教団体宗福寺が生じたか否かは、先ず第一に右旧曹洞派宗福寺から旧単立宗福寺への転換(すなわち曹洞宗からの離脱)が有効であつたか否か、したがつてその爾後の右単立宗福寺代表者の新規則作成、被告のこれが認証等の手続が有効であつたか否かが検討され、もしそれがすべて無効とされたときに初めて第二の問題として、右旧曹洞派宗福寺の実体をそのまま承継した宗教団体宗福寺なる寺院が存在するか否かを審査し得ることになるからである。ところが、右第一の問題はそのままそれが本件本案の問題であつて、そこにおいて充分審理されなければその当否を決し得ない。しかし、もし仮にそこにおいて原告ら主張の事実が全部認められたとしても、右第二の問題が肯定されなければ、原告らの主張を認めることができない。

三、そこで、ここにおいては、先ず右第一の問題が原告ら主張のとおりに認められたと仮定して(したがつて、それは本案審理の問題に委ねられることになる)、右第二の問題から検討してみよう。

そうすると、右旧曹洞派宗福寺(その存在は上述のように当事者間に争がない)は、曹洞宗に属する宗教法人令下の宗教法人のままで昭和二六年四月の上記法制の改革を迎えることになつたところ、右宗福寺はその際宗教法人法付則五項の手続をとらなかつたこととなるわけであるから、右宗福寺は同法付則一七項によつて昭和二七年一〇月三日において解散したこととされるのである。

ところで、原告らは、右「解散」とは単に旧来の宗教法人からその法人格のみを失わせる趣旨である、もし然らずとしても本件においては右旧曹洞派宗福寺はその法人格を失つたのみでその実体を失わないと解すべき余地がある、すなわち以上いずれの場合においても、同寺は清算手続をとつてその実体を失うということなく、実体同一の宗教団体として存続し続けると主張するので、この点につき判断する。

1、先ず、右付則一七項にいう「解散」なる語句を原告ら主張のように解し得るかについては、にわかに賛成しがたいところである。

すなわち、一般的にいつて、法人の解散なる語句の意味は、それが私法上の法律用語として用いられる以上、当該法人がこれにより以後法律上の主体たる地位を失い、ただ清算の目的の範囲内でのみ存続し、清算手続が結了するときはその法人格のみならずその実体をも完全に失うことをいうものとされていると解すべきであつて、この外に、原告らのいうような法人格のみを失う場合をも包含すると解し得る実定法上の根拠は乏しい(なるほど、法人が法人でなくなる場合として、右判示のように法人格及び実体が共に消滅する場合の外、原告らがいうような法人格のみが消滅する場合も法的観念として想定することは可能であろう。しかし、それは最早わが実定法上の用語の意味における解散ではなく、これとは別の語句をもつて呼称さるべき概念である)。したがつて、実定法に解散なる語句が使用されている場合には、それにたとえば原告らのいうような意味である旨とくだんの明文がついているような場合(たとえば宗教法人法付則一八項のような場合)の外は、右語句を前述の意味に解するの外ない。いまこれを前記付則一七項にみるも、同項はその「解散」なる語句に特別の意味のある旨の断わり書き等を付していないし、むしろ宗教法人法第六章「解散」の章の各規定に徴するときは、同法は同語句を前述通常の意味以上に用いていないことが明らかであるから、原告らの主張は、右法条の文理解釈からいつて首肯できない。

2、また「解散」の語句の解釈に関する原告らの主張は、右付則一七項の立法趣旨からも遠ざかるものと考えられる。すなわち、右付則一七項は、宗教法人法の制定施行にあたり在来の宗教法人令により設立せられた旧宗教法人に対する措置として設けられたものであるところ、先ず宗教法人法の内容と、右宗教法人令の内容とを比較してみると両者はその根本精神を殆んど同じくしているのであつて、只前者が後者よりもやや宗教法人に対する国の監督を強化した(たとえば、法人設立に際する認証制度の採用など)というにとどまるのである。宗教法人令はその根本的精神として新憲法二〇条、二一条の信教及び結社の自由の充分なる保障の精神の下に宗教一般及び宗教団体、同法人に対し、従来の宗教団体法に比べてかくべつの自由を保障し、これにつき充分民主的且つ保護的な態度を持している(たとえば、法人格なき宗教団体が法人格あるものとなるか否かを原則としてその自由意思に任せたこと)のであつて、同令のこの精神はそのまま宗教法人法に承継されているのである。言いかえれば、宗教法人法の制定施行によつて始めて右の精神が具現したものではなく、同法は只従来の宗教法人令の精神を引きついだにとどまるから、同法がその制定にあたり在来の宗教法人令下の旧宗教法人に対する措置として、にわかにこれを従来以上に保護しまたは従来以下に冷遇するの態度に出ることは考え得られないのである。してみると、右措置のあらわれである同法付則の各規定もこの趣旨から解さなければならない。しかるときは、同法は、宗教法人令より引き継いだ前記精神、就中宗教団体が宗教法人となることの自由なるを保障する立場から、その付則の諸規定を設けて右新法施行のさいに存在した旧宗教法人はいちおうそのままの法人格を承認し、この旧宗教法人が新法にもとずく宗教法人として存続するかどうかをその自由にまかせ、そのための所要の経過期間を与え、この期間内に所定の手続をしたものは新法による法人格を付与するとともに、みずから右の手続をとらないもの(或いは、とつても新設立を認め難いもの)に対しては、この際特にこれを存続せしめるの要なきがゆえに、これを解散せしめることとし、もつて一定の経過期間後には宗教団体にして法人格を有するものはすべて新法によるものたることを期して法の統一的適用をはかつているのである。従つてここにいう解散もまた従来宗教法人令が同令による法人が法人でなくなる場合にとつてきた態度としての解散(それはもとより通常の意味での解散である)と別物ではないとしなければならない。右付則一七項を設けた趣旨はまさにかように解せられるのである。したがつて、右一七項の解釈として、同項の「解散」により旧宗教法人はその法人格のみを失い、その実体は依然宗教団体として存続するというような解釈をとることは困難である。

3、最後に、原告らは、もし右一七項の「解散」を通常の意味に解すべきだとしても、本件の場合にはこれをそのまま適用すべきでないというが、仮に旧宗教法人がやむを得ない正当な理由によつて前記付則五項(又は六項)の手続をとれなかつた場合には、同法人の新宗教法人化について何等かの救済方法を講ずることが正しいとしても、それは別個の問題であつて、それがために付則一七項の「解散」なる語句の意味を拡張して、同法人は法人格は失うが清算手続には入らず、なお実体同一の宗教団体として存在し続けるというような解散をとることは、是認しがたいものといわなければならない。

四、しからば、右旧曹洞派宗福寺は、本件規則の認証にして無効なるかぎり、上記の頃右付則一七項によつて解散し、爾後は清算手続に入るべきものといわなければならない。いま、これを実定法の規定に照らしてみると、右宗福寺は、宗教法人法の施行に件い同法付則一七項の規定によつて解散することになるところ、その清算手続は右付則三項及び四項により宗教法人令の規定によつて行われるべく、同令によれば、右宗福寺は右の時期以後清算法人となり(同令一七条による民法七三条の準用)、清算手続を行わねばならず、しかしてその手続が結了して初めてその存在を失うのである(右民法七三条)。ところが、右宗福寺が以上の如く「解散する」とされた時以後今日まで、実際に清算手続に入つていないこと、従つてまた未だ同手続を結了していないことは本件弁論の全趣旨により明らかであるから、右旧曹洞派宗福寺は、上記宗教法人施行後、今日においても清算法人として存在しているものといわなければならない。

ところで、原告らの主張は、「右旧曹洞派宗福寺は、いわゆる解散をすることなく、只法人格のみを失うのであつて、清算手続に入ることなき宗教団体宗福寺として存続する」というのであつて、これと以上判示の「右宗福寺は、現在清算法人宗福寺として存在することとなる」との事実は一見矛盾するが如きであるが、原告らの本件訴の趣旨は、要するに、旧曹洞派宗福寺の実体を承継した宗教的組織体が現存するにかかわらず、他方に右旧曹洞派宗福寺の後継者なりと自称する新宗教法人宗福寺なるものがいるから、原告らは前者の組織体利害関係人として、後者存在の基礎をなす本件処分を争うものであると解せられるから、原告らの、その当事者適格に関する主張中には、右判示のような主張をも包含するものと解するのが相当である。

しからば、現在、一方において旧曹洞派宗福寺の実体を承継したと認められる清算法人宗福寺が存在するのに対し、他方右宗福寺の後身なりと称する新宗教法人宗福寺が少くとも外形上存在するから、原告らにして前者の法的利害関係人である限り、同人らは後者についての本件処分を争う利益を有するものというべきであり、したがつて、次に、原告らと右清算法人宗福寺との関係を検討する。

五、原告らが、かつて旧曹洞派宗福寺の檀徒総代、少くとも檀徒であつたことは、上記のように当事者間に争がないところ被告は、原告らはその後右檀徒総代の資格を失つたものと主張するが、この点は本案理由の有無に関連する争点であつて、この点をしばらく除外しても原告らがその後も檀徒であつたことは被告においてこれを明らかに争わないので認めたものとみなすべく、そうすると、右旧曹洞派宗福寺と清算法人宗福寺が上述のように同一の実体を有するものである以上、原告らは、現在右清算法人たる宗福寺について少くともその檀徒たるの資格を有するものといわなければならない。

然らば、問題は、清算法人たる寺の檀徒は、右寺との関係でどのような法的地位にたつかという点にかかるところ、それが、結局、右檀徒の右寺の清算手続に対する関係の仕方によつて決せられるので、そのためには、先ず、右清算手続の内容をみなければならぬ。右手続は、前述のように、宗教法人令の規定によつて行われる。従来の寺は清算法人となり(前出)、清算人が選任され(同令一七条、民法七四条・七五条)、清算人は民法七八条によつてその職務を行うが(同令一七条)、寺の残余財産の処分については同令一四条により、先ず当該寺の規則の定めるところによつて処分すべく、もし右規則にその点の定めのないときは裁判所の許可を得てこれを他の宗教法人または公益事業のために処分し得るが、そうしないときには右財産は国家に帰属する。しかして右の処置が終れば清算手続を結了して、清算人はその旨を主務官庁に届け出ることとなる(同令一七条、民法八三条)。

そこで、檀徒の地位の問題に戻ると、檀徒というものは、元来寺という宗教法人についてその構成員たるの地位にたつものというべく(宗教法人令九条、六条、一一条、一二条等なお宗教法人法二三条に「信者その他の利害関係人」とある点等参照)、したがつて、檀徒は、寺の存続維持運営について法律上当然の利害関係を有すること、あたかも社団法人の社員と同じく、否それ以上の関係にあるものといわなければならない。これを、前述の清算手続に則して観察すると、檀徒は、自益、共益双方の立場において、一定の場合、あるいは清算人選任手続に関与し、あるいはこれが解任手続に関与する等寺の清算手続に対して密接な法的利害関係にたつものというべく、殊に寺の残余財産の処分については、もし規則にその旨の定めがあればその分配を受け得ることあるべく、また、もし規則にそのような定めがなくとも(しかして、本件旧曹洞派宗福寺については、成立に争のない甲第一号証の五により、右のような定めはなかつたものと認められる)、右財産が、他の如何なる宗教法人または公益事業のために処分せられるか、または、国庫に帰属せしめられるかについて重大な利害関係を有するものといわなければならない。

そうであつてみれば、原告らが、本件清算法人宗福寺について、その檀徒たる立場から、これと法的に密接な利害関係を有するものであることは明らかであるから、原告らが、右宗福寺の法的地位を否定する新宗教法人宗福寺存立の基礎をなす被告の本件処分の無効確認を求める利益を有することも明らかであつて、原告らは正当な当事者であり、この点に関する被告の抗告は理由がない。

第二、本件訴と出訴期間について。

被告は、「本件訴は、原告らの主張内容からみると、むしろ抗告訴訟とみるべきものであるのに、所定の期間後に出訴しているから不適法である」という。

しかし、原告らは、被告のした本件処分の無効確認を求め、、右被告の処分は、もし原告らの主張にしてそのとおりであるならば、申請による行政処分について申請を欠く場合として当然且つ絶対的に無効な処分であること主張しているのであつて、これが本件訴の内容をなすものであるから、本訴を、被告のいうような意味で抗告訴訟と解することはできず、したがつて、本訴については出訴期間不遵守による不適法の問題を生ずる余地がない(なお、被告のいう意味ではなく、行政処分の無効確認を求める訴訟一般の性質からその本質を抗告訴訟的なものとみる立場から仮に問題を考えた場合でも、このような訴訟については、被告適格、立証責任の問題等はともかく、通常の抗告訴訟の如き出訴期間の制約規定は適用されないものと解すべきである)。

第三、むすび

以上判示したところにより明らかなように、本件訴は適法な訴であつて、この点に関する被告の抗弁は理由がないところ、右はいわゆる中間の争として裁判をなすに熟していると認められるので、本訴中右の点について主文のとおり中間判決をする次第である。

(裁判官 浅沼武 菅野啓蔵 小谷卓男)

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